■ 畠中実氏による静寂『LAST LIVE』&『静寂の果てに』評。2015.9.2

静寂『LAST LIVE』
灰野敬二、ナスノミツル、一楽儀光『静寂の果てに』

静寂の中に、瞬間、ある一音が空間に放たれると、それは勢い音の速さで拡散し、そして減衰していき、やがては静寂に帰る。空間に放たれた音は、それが消えてしまったら最後二度と戻ってこない、のかそれとも、宇宙にまで放散されても消え去ることはなく存在し続ける、のかどちらなのだろうか。
灰野敬二、ナスノミツル、一楽儀光の三人による「静寂」は、灰野のバンド「不失者」を受け継ぎつつ、アップデートした「21世紀のブルース・バンド」として、2009年に結成された。ブルースやロックという音楽形式にもとづきながら、それを定型のリズムで時間を分割するのではなく、それぞれのパートが絶妙なる間合いによって、自在に時間を分節化しつつ、フリー・ブルース、フリー・ロックとでも言い得るような、しかも、ロックのダイナミズムに強度と緊張感と高揚感を併せ持った、これまでに体験したことのない彼らでしかあり得ない、彼らだけの最高のブルース/ロックを体験させてくれる。これは、バンドにおける唯一無二のドラマーである、一楽儀光の最後の演奏となったライヴであり、それゆえ「静寂」というバンドの最後のライヴともなった演奏を記録したライヴ・アルバムである。二枚組、トータル二時間を超える演奏が収められているが、その間、演奏の強度と緊張感は一瞬たりとも緩むことなく持続する。
このアルバムは、一度聴いて忘れてしまっていいようなものではなく、否、忘れようとしても、心の深奥に残響し続け、なかなか消え去ろうとはしない。震災をへて、その直後のライヴではじめて演奏、発表された曲「いらない」は、人類の歴史を軽く凌駕するほどのスケールの問題に私たちが直面している現在、それを消えない音でたちむかうかのような作品だ。鋭利な音、言葉が私たちに突き刺さる。ふいに灰野は誰にともなく言葉を投げつける。それは、灰野がこれほどまでに直截な言葉を使ったことはいままでなかったのではないか、と思われるような言葉でもある。ここに聴き取ることができるのは、おそらくいま聴かれるべき、もっとも大切な言葉なのではないかと思える。“何も自分が変わらないで、誰かのせいにして”しまっている、あらゆる日本人、日本に住む私たちが襟を正して聴かねばならないような気にさせられる。そして、いらないものはこの音楽からはまったく聴こえてこない。
たとえばこれまで灰野の音楽を形容してきたさまざまな言葉、あるいは本人から語られる言葉が、灰野をどこか近寄りがたい孤高の存在と感じさせてきたこともたしかであろう。2012年の映画「ドキュメント灰野敬二」は、そうした孤高の音楽家の存在をより明るみに引き出したとも言える。そこでも灰野の、なにか純粋な精神性のようなものを獲得せんとする態度は、はっきりと感じることができた。灰野にとって、この「静寂」というバンドは、最良の精神との出会いでもあったのだと思う。このバンドの音は、この三人でしか出すことができない。このアルバムが『LAST LIVE』であることは、メンバーが一人でも欠ければ「静寂」でない、とまで言える音楽が完成されていたということの証左である。その最後の曲となった「始まりに還りたい」で歌われる、“何があっても生き抜く覚悟の用意”、とは、消え去らない精神であり、“お前の叫びを宇宙の生け贄に”する魂のありようなのだ。音を、言葉を、魂を、消え去らない音として宇宙に響かせること、それが「静寂」の音なのだ。
一方、同時に発表される『静寂の果てに』は、『LAST LIVE』のあと、三人によってライヴ演奏された作品である。それは、二枚組、二時間弱の、ドローンともアンビエントも形容されるだろう、持続音による演奏が続く。それはたしかに、静寂の果てに、消え去らずに残り続ける意志とも言えるもののように聞こえる。灰野、ナスノ、一楽の3人が放つ音が、どこまでも残響し続けていくかのようだ。あわせて聴くことをお勧めする。
(畠中実)

※ タワーレコード発行の『intoxicate』(#117)の同氏によるレビューのロング・ヴァージョンです。
『intoxicate』様より許可をいただきここに掲載させていただきました。


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