■ 北里義之氏による『Book from Hell』評。2010.6.30

 2008年9月18日,シンガポールで開催されたザイ・クーニン主催のツーデイズ・コンサート「BOOK FROM HELL」の二日目に登場したザイ・クーニン/大友良英/ディクソン・ディー・トリオの演奏を完全収録した本盤は,プリミティヴな感情に支えられた声や打楽によるゆったりとしたサウンド流と,断片化・砕片化した響きを再構成するターンテーブルやエレクトロニクスによって加速化されるサウンド流とが,からみあい,おたがいを触発しあいながら,着地点も決めず,時間割も投げ捨てて,自由に,ときには野方図に,多様な響きを交感しあったものである。まるでカオスのようにひとかたまりとなり,フレーズやメロディーといった断片的なもの──あるいはセッションという出来事以前のもの──にわけることのできないザイ・クーニンの音塊群は,どんな楽器を演奏するときでも,まるで伝統音楽のように,深い淵をたたえた大河のように,ほとんど宿命的と呼べるような姿で滔々と流れくだっていく。楽曲構成という発想で,演奏を細切れにできないのも,ザイ自身の筆によるジャケット画に,文字を重ねることが許されないのも,すべては一体であるというザイ・クーニンの思想を体現したものといえるだろう。
 こうしたありようと対照的なのが,指の痕跡を残すターンテーブルと身体の影を持たない電子音という違いはあるものの,ともに響きを再構成するところから演奏を生みだす大友良英とディクソン・ディーのエレクトロニクス群である。それらはもともと,PC のなかに散乱したサウンド・ファイルや,回転するターンテーブルの自己触発をつなぎあわせて,フレーズらしきものに作りあげたものである。ザイ・クーニンの演奏を農業にたとえるなら,大友やディーの演奏は,食品加工産業というべきものなのである。身体感覚が,あるいは響きの味わいが,まるで異なっている。流麗なメロディーを奏でたり,フィードバック奏法でギター・サウンドの皮膚のようなものを広げてみせたりする大友の演奏も,ザイ・クーニンの音塊の前では,さまざまな部分を間違いなくつなげていく職人仕事のように見える。そうではあるのだけれど,言うまでもなく,都会暮らしをする私たちが,そのような生活スタイルなしで生きていくことはすでにできない。深々とした身体の闇を押し広げるザイ・クーニンの音塊だけでは,おそらく現代のユートピアを描き出すだけのことになってしまうだろう。
 このときアジアとは何だろう? 欧米とは違うアジアの即興演奏とは? 三つの身体の間にかけわたされたサウンドの橋は,個性的な三者が並び立つひとつの平面を描き出すのではなく,光のとどかない彼方にむかって次第に暗くなるような,奥行きを感じさせるものとなっている。トリオにおける大友良英の位置は,ディクソン・ディーの電子音よりはるかに身体的なものでありながら,ザイ・クーニンが孕んでいる身体の闇を決定的に欠いているというような,いたって複雑なありようを示している。これは両者の中間にあるということではなく,両者と別様のあり方をしていると考えるべきだろう。ディクソン・ディーとザイ・クーニンの間をつなぐ橋など存在しない。とることのできる即興戦略についてあえていうならば,グレーゾーンをなるべく幅広くとるということくらいだろうか。そのことが大友のギター演奏にあらわれている。すべてを奥行きのなかに構成することが,トリオ・ミュージックを成立させるぎりぎりの選択だったように思われる。■


※「BOOK FROM HELL」のリハーサルを収録した動画(4分16秒)。
 http://www.youtube.com/watch?v=WICW5BiwOxw&feature=player_embedded


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